それから幾日か後――。

江戸・尾張藩上屋敷。

御三家の一つに数えられる尾張徳川家の屋敷は、将軍の御成りを迎えて華やかな空気に包まれていた。庭には灯がともされ、座敷では酒宴が催される。

上座に座すは、五代将軍・徳川綱吉。

その傍らには、尾張前藩主にして現隠居・光友の正室にして綱吉の実姉――千代姫の姿があった。

すでに酒も進み、場は和やかな笑いに満ちている。

だが、その空気を破るように、千代姫が盃を置いた。

「上様」

やや頬を紅潮させながら、しかしその眼光は鋭い。

「なぜ妾は――将軍にはなれぬのじゃ?」

ざわ、と座が揺れた。

千代姫は、ただの姫ではない。かつて父・徳川家光に「もし男子であったなら将軍にしていた」とまで言わしめた女傑である。尾張に輿入れしてからも、その気性は衰えず、夫をも完全に従えてきた。

「銀河帝国にも、アーヴにも女帝の先例はある」

言葉が、酒の席とは思えぬ重みを帯びる。

「それに外様の大名の中にも、女王として国を治める者がおるではないか」

視線が、まっすぐ綱吉を射抜く。

綱吉は、ゆっくりと盃を置いた。

「……姉上」

その声は、冷静でありながらも、どこか慎重だった。

「征夷大将軍とは、全王様の御威光を受け、夷敵を討つための役目にございます」

静かに、しかし明確に線を引く。

「銀河帝国やアーヴの女帝とは、その本質が異なりまする」

千代姫は、しばし綱吉を見つめ――やがて小さく笑った。

だがその笑みは、どこか寂しげであった。

「……女子に生まれたわが身が、口惜しいのう」

その一言は、宴の喧騒の中に溶けることなく、妙に重く残った。


江戸城。

夜も更けた中奥に、灯がひとつ。

綱吉は、側用人・柳沢吉保と、ただ二人きりで向かい合っていた。

「……吉保」

低く、押し殺した声。

「母上や姉上に、あのようなことを吹き込んだのは――誰じゃ?」

吉保は一礼し、慎重に口を開く。

「上様は、昌平坂学問所の女教授――下野百舌子(しもつけのもずこ)をご存知にございまするか」

綱吉は、わずかに眉を上げた。

「知っておる。近頃、書を出したり、諸処で言論を振りまいておる女であろう」

吉保は静かに頷く。

「その下野が、近頃、桂昌院様や千代姫様に接触し――」

一拍、置く。

「男女平等の観点から女性及び女系将軍容認の理を、しきりに説いている由にございます」

「……何じゃと?」

綱吉の目が鋭く光る。

吉保は続ける。

「のみならず、町中や瓦版、さらには“網絡(インターネット)”を用いた言論においても――」

「甲府宰相様への誹謗中傷を広め、さらには上様が鶴姫様を次期将軍とお定めになったとの風説を流布している模様にございます」

沈黙。

次の瞬間――

「愚か者がッ!」

綱吉の怒声が、江戸城天守閣を震わせた。

「将軍家の威光が、いかなるものか……思い知らせてくれる!」

その怒りは、単なる不敬への怒りではない。

“秩序そのもの”に対する挑戦への怒りであった。


数日後。

下野百舌子は捕らえられた。

昌平坂学問所教授の地位を剥奪。

そして――島流し。

関係者もまた、次々と拘束され、厳罰に処されていく。

記録は整理され、言説は封じられた。

まるで最初から存在しなかったかのように。


だが。

火は消えてはいなかった。

くすぶるように、静かに。

人々の記憶の奥底で。

「なぜ、女子は将軍になれぬのか」

その問いは、時代の底流として残り続ける。

やがて時は流れ――

十一代将軍・徳川家斉の世。

再びその火が、別の形で燃え上がる。

幕政に巣食う権力者たち――中野碩翁一派は、ひそかに動き出していた。

将軍の側室・お美代の方の血を引く姫――溶姫。

そして、その子――

前田犬千代(のちの加賀藩13代藩主・前田慶寧)。


その血統をたどれば、確かに東照宮の血は流れている。

女系で、ではあるが。


加賀百万石の威を背景に、彼を将軍の座に押し上げる。

それはもはや思想ではない。

――政権そのものを覆す、陰謀であった。

かつて綱吉の時代に封じられたはずの“禁忌”は、形を変え、より現実的な野望として蘇ろうとしていたのであった。