元禄の世も半ばを過ぎた頃。江戸城・中奥には、静まり返った空気が漂っていた。
五代将軍・徳川綱吉は、几帳の向こうにぼんやりと視線を落としていた。かつては「生類憐みの令」をもって天下に仁政を示し、徳の治世を目指した将軍であったが、その胸中には、今なお埋め難い喪失が影を落としている。
嫡男・徳松の死。
あれ以来、いくら祈ろうとも、いくら徳を積もうとも、後継ぎとなる男子は生まれなかった。
やがて綱吉は、ある決断を下した。亡き兄・綱重の子――甲府宰相・綱豊を後継とする、と。
そのはずであった。
――だが。
「上様、桂昌院様がお越しにございます」
静寂を破ったのは、側近・柳沢吉保の低い声であった。
綱吉はわずかに眉をひそめ、ため息をつく。
「……また、あの話か」
声には、露骨な倦みが滲んでいる。
やがて、襖が静かに開かれた。
ゆるやかな衣擦れの音とともに現れたのは、老いてなお気丈な気配を失わぬ女性――桂昌院であった。桂昌院は、次期将軍に甲府の綱豊ではなく、自身が可愛がっている孫娘・鶴姫の婿である紀州の綱教を強く推している。
綱吉は、姿勢を正しながらも、先手を打つように口を開く。
「母上、例の話ならば聞きませぬぞ。すでに後継は、我が甥・綱豊と決めておりまする」
その声音には、これ以上の議論を拒む硬さがあった。
しかし桂昌院は、一歩も引かなかった。
「綱吉殿!」
鋭い声が座敷に響く。
「お夏の方をお忘れか!?」
空気が、一瞬にして張り詰める。
「まだ大猷院様――徳川家光公がご存命の頃、綱重殿とあの女は、我ら母子をどれほど苛め抜いたか!」
桂昌院の目には、過去の記憶が燃え上がっていた。
それは、かつて「お玉の方」と呼ばれ、大奥の奥深くで繰り広げられた女たちの権力闘争――その傷跡であった。
「綱豊殿は、その憎き女の孫ぞ!」
吐き捨てるような言葉。
綱吉は一瞬、言葉を失う。しかしすぐに静かに応じた。
「……無論、忘れてはおりませぬ」
低く、抑えた声。
「しかし、綱豊を世継ぎと定めるは、亡き水戸光圀公との約定でもありまする」
理と義。その二つを背負った言葉であった。
桂昌院は、しばし黙した。
やがて、ふっと力を抜くように息を吐く。
「まあよい」
その声音は、先ほどまでとは打って変わって静かだった。
「今日はそのことで参ったのではない」
綱吉は、わずかに眉を動かす。
桂昌院は、ゆっくりと綱吉を見据えた。
「のう上様」
「これ以上、綱教殿と綱豊殿とで将軍位を争わせるは、天下のためになりませぬ」
その言葉には、どこか冷静な響きがあった。
だが――次の一言が、すべてを覆した。
「いっそ、上様直系であるお鶴を――次の征夷大将軍としてはどうか」
沈黙。
時間が止まったかのようだった。
「……はぁ?」
綱吉は、間の抜けた声を漏らした。
それは、将軍としてではなく、一人の人間としての純粋な驚愕であった。
「いやいや、母上、それはなりませぬぞ!」
思わず身を乗り出す。
「将軍位は、東照宮様――神君家康公の男系男子が継ぐ。それが絶対の掟にございまする!」
言い切る。
それは制度であり、信仰であり、徳川という政権そのものの根幹であった。
桂昌院は、しばし綱吉を見つめ――やがて小さく呟いた。
「……そうかのぅ」
その声は、どこか遠くを見ているようでもあり、あるいは何かを測っているようでもあった。
江戸城の奥深く。
誰も気づかぬまま、ひとつの“禁忌”が、静かに言葉となって現れた瞬間であった。
コメント