慶長十年――多元世界暦一六〇五年/宇宙暦八二四年。
天下はすでに定まっていた。
徳川家康は将軍職を三男・秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に退いていた。だがそれは隠居を意味しない。江戸に幕府を構えた徳川政権の実権は、なおもこの老獪な男の掌中にあった。
駿府城。
静まり返った御座の間で、家康は届いた報告書に目を落としていた。
やがて、鼻で笑う。
「……くだらぬ」
傍らに控える老臣、本多正信が静かに頭を下げる。
「いかがなされました、大御所様」
「江南の侯景とやらが、“宇宙大将軍”を自称しておるそうだ」
家康は書状を軽く放り投げた。
「所詮は田舎者の戯言よ。捨て置け」
だが、正信は表情を崩さなかった。
「――恐れながら」
その声には、わずかな緊張が滲んでいる。
「侯景の力を侮ってはなりません」
家康の視線が、ゆっくりと正信へ向けられる。
「申してみよ」
「はっ。侯景はすでに主君たる簡文帝を弑し、予章王・蕭棟を擁立。さらに自らは“漢王”を称し、実権を完全に掌握しております」
「……ほう」
「その勢い、まさに日の出のごとし。もしこれが、アーヴ星界軍や銀河帝国、あるいは地球に在る豊臣秀頼と結ぶような事態となれば――」
言葉を切り、正信は深く頭を垂れた。
「容易ならざる禍となりましょう」
しばしの沈黙。
家康は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……うむ」
やがて、低く呟く。
「ならば――今のうちに潰しておくか」
正信の口元が、かすかに歪んだ。
「御意」
そして静かに一礼する。
「すべては、この佐渡めにお任せを」
――その決断が、遠く離れた星域の運命を決した。
***
江南星域。
侯景が築いた“漢”の国は、わずかな時をもって綻び始めていた。
もとより彼に経世の才はなかった。
加えて、猜疑と暴虐に満ちた統治は、民も将も急速に離反させていく。
重税、粛清、略奪――。
かつて「宇宙大将軍」を名乗り意気揚々としていた男の国は、内側から崩れ落ちつつあった。
その混乱を見逃す者ではない。
荊州・江陵。
ここにて即位した梁の皇帝、元帝は、ただちに行動を起こした。
彼は自ら江戸へ赴き、将軍・秀忠に謁見する。
大広間において、元帝は深く頭を垂れた。
「我が梁、徳川将軍家に臣下の礼をもって仕えん。どうか、逆賊侯景討伐の御許可を賜りたく」
将軍の背後――見えぬ場所で、その言葉を聞いていた者がいる。
駿府の大御所、家康である。
許可は、すでに下されていた。
こうして、侯景討伐の大義名分は整った。
元帝は軍を編成し、名将王僧弁にこれを預ける。
さらに義勇の雄、陳霸先もこれに呼応し、兵を率いて加わった。
討伐軍は進撃する。
一方、侯景は自ら軍を率い迎え撃った。
だが――
「な、なぜだ……!」
戦場に響く侯景の叫び。
かつての勢いは見る影もない。
兵は逃げ、将は裏切り、補給は途絶える。
「踏みとどまれ! 俺は宇宙大将軍だぞ!」
その声は、虚しく風に散った。
戦うごとに敗れ、敗れるごとに軍は崩壊していく。
ついに侯景は、敗走を決意した。
「ここを退く! 立て直せば――まだ……!」
だが、その望みすら許されなかった。
逃走の途上。
最も近くにいたはずの配下が、静かに刃を抜く。
「……殿、お許しを」
次の瞬間。
刃は、主の背を貫いていた。
侯景は目を見開き、声にならぬ声を漏らす。
「な……ぜ……」
応える者はいない。
宇宙大将軍を自称した男は、名もなき裏切りによって、その生を終えた。
***
かくして――
侯景の“漢”は、わずか五ヶ月で滅亡した。
その報せが駿府に届いたとき、家康はただ一言、こう言った。
「……だから申したであろう」
そして、静かに茶を啜る。
天下は、揺るがない。
少なくとも――この男が生きている限りは。
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