慶長十九年――多元世界暦一六一四年。
地球冬の陣は、すでに江戸幕府(徳川方)と地球連邦政府(豊臣方)の講和という形で幕を下ろしていた。
本多正純、阿茶局、そして豊臣方の使者として伏見に入った常高院(ちびうさ)との折衝は、十二月十九日に合意に達し、翌二十日、誓書が交換され、地球を揺るがした大戦は、ひとまずの終結を迎えた。
だが、伏見城の空気は、決して緩んではいなかった。
その日、城内の表書院へ通された一行がいた。
惑星チキューの美と医療の国――イシャバーナ女王、ヒメノ・ラン。
そして執事のセバスチャン。
さらに、地球側医療チームの代表として同行する、大治小夜。
静まり返った畳廊下を進む三人の足音は、やけに大きく響いていた。
セバスチャンは、歩きながら何度も喉を鳴らしていた。
(……本当に、大丈夫なのでしょうか)
戦時中、イシャバーナが運営した野戦病院は、徳川方の兵だけでなく、豊臣方――地球連邦軍の負傷兵も分け隔てなく治療していた。
医師として当然の行いではあったが、戦後の政治の場では、それが罪に転じることもある。
だが、当のヒメノは――
「ふふ、伏見城って、思ったよりも地味ですのね」
と、小声で呟きながら、まったく緊張した様子を見せていなかった。
やがて、襖が静かに開く。
そこに座していたのは、徳川家康。
すでに将軍職を秀忠に譲り、大御所と呼ばれる身でありながら、その視線は、いささかも衰えていなかった。
「……イシャバーナ女王、ヒメノ殿。
此度は、よく参られた」
「ははっ。お招きにあずかり、光栄に存じますわ」
形式ばった挨拶が交わされ、しばしの沈黙。
やがて家康は、穏やかな声で口を開いた。
「戦の最中、そなたの国の医療団が、多くの兵を救ったと聞いておる。
しかも――敵味方の別なく、な」
セバスチャンの背中に、冷たい汗が伝った。
(……来る……)
だが、
「見事なことじゃ」
家康は、そう言って小さく頷いた。
「医の道に、敵も味方もあるまい。
まこと、たいした心がけよ」
セバスチャンは、思わず息を吸った。
そして続けて告げられたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「イシャバーナ国には、これまでの功に報い、大和竜田の地を飛び地として加増する」
「……!」
小夜は思わず目を見開き、セバスチャンは深く頭を下げた。
ヒメノは、微笑を浮かべたまま、優雅に礼をする。
「ありがたき幸せにございます。
これからも我がイシャバーナは、徳川家に末代までご奉公いたしますわ」
その一言に、セバスチャンはようやく胸をなで下ろした。
――しかし。
空気が、ふと変わった。
家康が、わずかに体を前に乗り出したのである。
「ところで、ヒメノ殿」
その声は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。
「そなたは、以前……秀頼殿の子の出産に、立ち会ったそうじゃな?」
一瞬で、三人の血の気が引いた。
「若(男の子)か? それとも姫(女の子)か?」
ヒメノ。
小夜。
セバスチャン。
家康の問いに、誰も言葉を発することができなかった。
豊臣秀頼には、すでに二人の幼い子がいる。
国松と、奈阿姫。
そして――
その出産に、ヒメノが産科医として立ち会ったことは、事実だった。
だがそれは、地球連邦側でも最上位の極秘情報。
表に出るはずのない記録だった。
小夜が、震えを抑えながら口を開く。
「おそれながら、大御所様、その儀は――」
だが、途中で遮られる。
「わしは、ヒメノ殿に聞いておる!」
鋭い一喝。
畳の上に、重たい沈黙が落ちた。
セバスチャンは、思った。
(知られている……!)
ただでさえ、徳川から豊臣に嫁いだ正室・千姫を差し置いて側室との間に隠し子が存在することだけでも大事なのに、もし、秀頼に男子がいることが、公式に徳川に認識されれば――
その子の将来が、どうなるかなど、考えるまでもない。
だが。
ヒメノは、顔色一つ変えなかった。
むしろ、先ほどと同じ、あっけらかんとした笑顔で、はっきりと告げた。
「その件には、お答えいたしかねます」
「……ほう」
家康の視線が、鋭く細まる。
「そなた、たった今、徳川家に末代まで奉公すると申したばかりではないか」
ヒメノは、にこりと笑ったまま、姿勢を正した。
「御奉公の件は、重ねてお誓い申し上げますわ」
そして、言葉を区切り、静かに続けた。
「けれど、医者には――患者の個人情報を守る守秘義務というものがございます」
小夜の胸が、強く脈打つ。
「いかに大御所様の仰せといえども、
お教えいたすことは、できません」
ぴたり、と。
部屋の空気が止まった。
家康は、何も言わない。
ただ、ヒメノを見つめている。
その視線を、ヒメノは真正面から受け止めたまま、さらに言った。
「もし、ご不興がございましたら――
大和竜田の所領は、返上仕ります」
セバスチャンの心臓が跳ねた。
(ヒメノ様……!)
だが、ヒメノは微塵も動じていなかった。
そして――
長い沈黙ののち。
家康は、ふっと小さく息を吐いた。
「……いや」
「その儀に及ばず」
「下がってよい」
それだけだった。
ヒメノたちは深く一礼し、静かに退室した。
廊下へ出た瞬間。
ヒメノは、くるりと振り向き、両手を軽く振った。
「あー、怖かった!」
そのあまりにも軽い一言に、
「ひ、肝が縮みましたぞ……」
セバスチャンは、膝が抜けそうになりながら呟いた。
小夜も、ようやく息を整えながら小さく頷いた。
「……本当に」
その後。
この件について、イシャバーナ国に対して、幕府から圧力や嫌がらせが加えられることは――
ついに、何一つなかった。
ヒメノ・ランは知らなかったが。
伏見城に残された大御所・徳川家康は、ただ一人、静かにこう漏らしていたという。
「……医者、か」
「なるほどの覚悟よ」
それは、詰問を断った女王への、
ささやかな評価でもあった。
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