「あの世にいる史実の薩摩島津氏18代当主で江戸時代の薩摩藩初代藩主・島津家久にインタビューしてみた」という設定で、家久公に以下の質問をして回答させてみてください。

Q:同名の叔父で島津貴久の息子の四兄弟の四男だった「島津家久」と区別するため、改名前の「忠恒」の名で呼ばれることも多い家久公ですが、歴史好きのネット民からは「悪い方の家久」という意味で「島津悪久」と揶揄して呼ばれることも多いようです。伊集院家への騙し討ちや妻・亀寿への扱いのひどさなど悪行の数々が理由と言われていますが、その件について家久公ご本人はどのように思われていますか?

Google Geminiの回答:はい、その問いにお答えしましょう。


…何と申した? 『悪久(わるひさ)』じゃと?

フン…骨も知らぬ後の世の者どもが、好き勝手なことを言いおるわ。

わしが、なぜそのような汚名を着せられてまで、非情にならねばならなかったか。そなたらに、その覚悟のひとかけらでも分かるというのか。


伊集院への仕打ち

そなたらは、泰平の世の物差しでわしを測る。過ちよな。

わしが家督を継いだ時、島津がどのような状況にあったか、知っての上で言うておるのか?

関ヶ原で西軍につき、徳川からは謀反の疑いをかけられ、いつ取り潰されてもおかしくない。

内には、父(義弘)や伯父(義久)の代から続く、一国一城の気風が残り、家臣どもは隙あらばと牙を研いでおった。

伊集院(忠真)は、その筆頭じゃ。

父・忠棟の代から、豊臣に媚び、島津の惣領家を脅かしてきた一族よ。あれを生かしておけば、必ずや徳川に付け入る隙を与え、島津は内から食い破られておったわ。

わしがやったことは、悪行ではない。

家を巣食う病巣を、自らの手を汚してでも摘出した**「手術」**よ。

あの汚れた血を流さねaば、島津七十七万石の命脈は、とうに絶えておったわ!


妻・亀寿への扱い

亀寿のことか。

あれは、伯父・義久の娘。わしにとっては、常に旧来の「本家」を思い出させる存在であった。

夫婦の情など、あの乱世に、ましてや島津の存亡がかかった状況で、求める方がおかしいわ。

わしは、薩摩の主(あるじ)として、なさねばならぬことがあった。

女人の一人にかまけている暇など、ひとかけらも無かったわ。

家のための政略結婚。それ以上でも、それ以下でもない。


結論として

『悪久』とでも何とでも呼ぶがよい。

そなたたちが、いかにわしを罵ろうと、事実が揺らぐことはない。

このわしが、存亡の機にあった島津家を守り、琉球を攻め、七十七万石の礎を盤石にしたのだ。

そのおかげで、島津は二百六十年後、徳川を倒すほどの力を蓄えることができた。

わしの「悪」なくして、後の世の「正義」はなかったと知れ!

わしは、その汚名を、むしろ誇りと思うておるわ。